昭和49年7月19日  朝のご理解        【入力者:五徳】



ご理解第5節
『これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。』


~・~・~・~ 録音がとても小さい ~・~・~・~

 お願いをする、おかげを頂く、人間が助かる。これが、金光大神がこの世にご出現された、天地金乃神様の願いが(?ふれた)と思うんですね。
 えぇおかげを頂く、それは、例えば、ならん、(?なんとも)でもいいと。和賀心に神がござるから(?いっしゅんか)すれば、例えば柱、柱を拝んでも、おー、おかげを頂けるんだと。
 けれども金光大神の、必ず、人間が助かるということの話が、そのお返しに、お返しに( ? )、ご返事にと申しましょうかね、いわゆる語るのではない。必ず人間が助かるということ、願いをおかげもおかげとしてくださると同時に、人間が真実助かるということを教えてくれる。これが金光大神取次の道だと思うんです。
 おかげを取り次いでくださる、同時に、人間が助かるための教えを聞かして下さる、(?ろうきけて)下さる。
 私は最近、合楽で説かれておる御教えを思うのですけれども、ほんとに今の御理解などは、もう聞き漏らしたら、もう大変な、私は損だと思いますね。もこのご理解を頂いて帰るということだけでも、もう大変なことだと思うんです。皆さんがお参りになって(?帰った。)そのご理解を、例えば頂いて帰るということ。なるほどそれを、守らなかったり行じなかったら、頂かんと思いますというふうにも言えるけれども、実際は頂いておるならば、本気で聞いておくならばです、ね、聞いておるだけ、とこうするです。
 何故って、今あのご理解を頂いておりますと、もうそれこそ、人間が誰しも願って願ってやまないおかげの頂ける話をされたからです。( ? )、神様の願いがです、そういうおかげをくださることの時期が、到来しておるといったような感じが、いっぱいにあるからです。
 皆さんが、今、本気になるならばです、ただまあ、私のほうは、私一人しか信心しよらんけんで、勢を揃えた信心ができよらんけんで、(?いうごと)ない。その一人の人が極楽(?みょう)だというか、真善美のおかげを頂いていったら良いでしょうが。自分たちは有り難いということになっていったら良いでしょうが。
 ね、はあの人が信心するから、ああ(?上)のが信心するからという。なら信心しておるあなたが、言うならば、おかげで、言うならば、心に合楽を現して行ったらいいんじゃない(?かにぃ)。
 私は、えーその、合楽を現すということ、ね、神様がおかげをくださる。私でもが、そのおかげを極楽モードに演出する。ここが、兼ね合いが取れていかないといけない。神様がいくらおかげをくださってあっても、私共がそれをね、神さも助かり氏子も立ち行く、ね。
 商売人であんなら、私は、もう喜んでもらえりゃ、自分方もおかげ頂く。夫婦であんなら、家内も、主人も、親子でありながら、親も子もが、ね、言うなら拝み合うていけれる、喜び合うていけれるというおかげをです、神様が、なら下さっておってもです、それを表し演出するのは人間です。
 私は、どういうことが、最近、こういうことに、に、ならそれこそ叫ばれてきたかと。合楽で今、今叫んでおると。それはもう、実況しておるわけです。合楽全体の人たちが、ほんとの合楽モードを、自分の家庭に、自分の職場に、自分の心に、現して行けれる。それが天地金乃神様の願いである。金光大神が、言うなら百年前に出現されて、その百年前の神の願いを受けられて、今日です、それが本当の意味においてのおかげが実現しようとしておるということです。ね。
 もとをとって道を開く者は、荒れぬ行をするけれども、後々の者は見やすう、そういう行をせんでも、ね、見やすうおかげを受けられるということを、素直に受けなきゃいけんです。
 いんや私は、それでも断食する、いんや私は、(  ?  )もんと、家のことではなくて、もう私どもが修行として進めてこんことにはです、もう、ね、自分の頂いておる範囲を完璧に、ね。
 さっきも申しておりましたね、一反の田を持っておんなら、一反の田に十分の収穫があるように、草も取り除かにゃいかん、肥料も十分にやらなきゃいけん。ね、と同時にです、もういよいよ、成り行きを大事にして行くということです。神様が、成り行きの上にくださるおかげを、これを本気で、ね、例えばなら、断食やら水(  ?  )という人たちが、一週間なら一週間、一ヶ月なら一ヶ月の表を切ったりするでしょ。
 だから私は、まずはそれを見につけるために、もう今日一日だけは、本気でですよ、本気で成り行きを大事にしようといったような修行をなさると良いです。一週間だけは、一ヶ月だけは、誰が何と言おうと起きてくる事柄の一切を合掌して受けるという修行をなさったら良いです。もうこの修行以外にないです。それが家業の行です。家業の上に起きてくるところの行をです、本気で合掌して受ける以外にないです。
 ね、私は、合楽の独壇場というのはね、この、どうしてこの合楽モードとか極楽モードとか、ね、真善美の世界とか、ね、病気のない世界、(?にんべえ)のない世界、争いのない世界をです、私どもの一人ひとりの心の上に、または家の上に、それをまた社会にも広げていこうというような、あー今までなら大それたようなことであったけれども、今の合楽は、それは対策とかじゃない。誰でもそれが頂けれる時点に来ておるということなんです。
 だから今のお話だって、一日だって頂き損のうたらそれだけ損するということ。今日の話、今からなんだから。ね。そして、ふんなら例えばです、・・・。
 言うなら、節食修行する、ねー。例えば、末永先生たちは、まあ日に一回しか食べんといったような修行を、長い長い間続けておったけれども、この頃、確かやめておるでしょう。ね。(? その他は or それから)断食をするとか、もうこれはね、もうこういう時代は、金光教の信心から過ぎ去ったんです。
 ね、ですから十分頂いておる。だから、一人なら一人でも良い、と言ってるんですよ。家族の者が信心しなくても、一人だけ、自分の分野だけをです、確かに守って、そこから喜びの神格を得ていけと言うのです。
 ね、それが、周囲に広がって行くおかげを頂いた時に、なら家族勢を揃えてとか、ね、(?ぜんて)、例えば高橋さん方で言うならば、百人から職人、職人さんとか、女中さんがおられます。その百人の、例えば職人さんたちが、ね、社長、高橋さんの後に続いてくるというようなおかげを頂くためには、高橋さん自身がそこを頂かにゃいけないんです。
 誰でも、極楽モードを嫌いというものはありません。ね。病気のない、貧乏のない、ね、争いのない世界を、望まない、願わない者はないけれども、それのことを大それた願いのように、今までは思うておった。この観念を捨てなきゃいけんです。ね、そんなこととても頂けるもんじゃない、私どもの信心じゃ、と言わずに、それを、それなりに頂けれるということなんです。
 そして、最近言われておることは、なら、あら、ほんに考えてみると、私の方の頂いておるてえという人がたくさんあるということ。それを、頂いておる物を頂いておるとしないで、まだ頂き足らんような考えをしておるから、そのおかげ自体が死んでおる。半信半疑になっておるからそのおかげが育たないのだと、最近言っております。ね。
 私、合楽の、どういうようにこういうようなことが、最近叫ばれるようになったかと言いますとね、合楽の方達は、素晴らしいタイミングの生まれて来る信心を、ここ二十数年間重ねてきたということです。これはね、言うならば、合楽だけと言っていいぐらいです。だからそういうような話しを、よその信者さん方やら先生方に話してもですね、ほーうっち言うだけですよ。ね。
 そりゃ、お繰り合わせを願ってからです、言葉にしてお繰り合わせを頂いて、素晴らしいタイミングを頂いたというのは、金光教にはたく、みんなそうです、お繰り合わせ願っておるか・・・。けれども、私どもの場合はですね、その、言うなら、素晴らしいタイミング、もう一日のうちに、それをどのくらい感じるか分からんというほどしにです。
 例えばうんなら、前を通っておる自動車を見ても、神様がものを言うてくださるかのように、ね。例えば中村さんところに、あの、ま、合楽商店、(?じこく)表の番号がこう、丸っきりこりゃお役に立たれん、御用に立たれないというような、こりゃ番号じゃけん、しっかりお役に立てなんばいというて、息子に言うたという。
 そういう例えば、でん、その、電話番号とか、その車の上の、例えばああいうナンバーなんかの上にまでです、もう(  ?  )ように、合楽の場合は働きがあっておる。それを皆さんが、感じたり、それを察知したりすることを、皆さんが大分されてきたことですね。
 これはね、例えばいくら真善美のおかげをここに頂いてもですよ、病気がない世界、ね、言うならば、貧乏のない世界、争いのない世界に住んでおってもです、それをほんとに極楽と感じきらなかったらね、ダメなんですよ。ところが、合楽で( ? )して、素晴らしいタイミングに、もう恐れ入ってしまうという、この恐れ入った心で真善美を見てごらんなさい。もういよいよなるほど、私一家は極楽にあるんだなということが分かる。私ここんところをね、改めてまた、あり難いと思わして頂くんです。
 なるほど合楽の方達は、こういうお繰り合わせを頂いてきた。(  ?  )はです、曲がりなりにも成り行きを大事にするとか、御事柄としての受け方の稽古をなさるところからです、曲がりなりにも、言うなら素晴らしいタイミングがです、それこそ自然がささやきかけてくださるように、もの言うてくださるような働きを自分の周囲に現したり、頂いたりして、神様の働きとはもったいないのと恐れ入ってしまうごと、間違いないなあという体験を、お繰り合わせを願わんでも頂いておられるということです。
 これがだから、ほんとの極楽モードの基本になるもんです。ね、その基本ができたからです、もう上、その上に、真善美の、言わばおかげを頂くことのための精進であり、ね、いよいよこのおかげを、神様も喜んでくださる、自分も喜び、お客様も喜んでくださる、自分方も儲かる。主人も喜んでくださりゃ、自分も一緒に喜び合うていけれる、言うならば演出を成さらなければいけないということになります。
 だから、神様のそうした神願の中にはです、神様の氏子信心しておかげを受けてくれよということは、神様がそういうおかげをくださることを、私どもが演出して、初めて極楽モードというのが生まれるということです。ね。
 例えて言うと、お部屋の中にお花の一つも飾ったり、キチット整頓するということは、これは、合楽モードの演出です。極楽に、散らかったり、散らかり狭いところがあるはずがありませんから、ね。そこを綺麗に清めたり、花を入れたり、ね。そりゃ子供達んでん、もう火のつくごと泣きよる。それを母親が、ほんなもうえげつのう見てから怒りよる。ね、そういう世界が極楽世界にあるはずがありません。ね。
 ですから、ほんとにみんなでそこを心掛けさせて、だかんやめていいわけじゃないけども、そのあやし方、そこにです、極楽、極楽ちゃこういうとこじゃろうというですね。ほら( ? )おかしゅうかなち。もうあんた(  ?  )ち言ったようなことがあるはずがないです。
 ね、子供じゃ( ? )泣きません。けれども、その言うならば、育て方、あやし方にです、私どもが苦労するということは、極楽を演出することになるのです。
 昨日私、お食事ん時、高橋さんと話したことですけれど、私ぐらい食事ん時に、食物を称えてから頂くものはおりませんのうと言ってから、頂いたことでした。
 もう私は、もうほんとに、もうこれも美味しい、これ、もほんと野菜も美味しいんです。何を頂いても美味しいんです。だから、はあうまかっただけじゃなくてです、ほんとにこの、なら次の美味しさ、ね、この(?)の美味しさ。この味噌の味はいいね、もう称えられるだけ、それ称えんなら、もう称えんなんおられんのです、私の場合。
 昨日一昨日でしたか、熊谷さんが、久しぶりでお孫さんのところにおかげを頂かれた。ならおかげを頂かれて、もうどうもなかった時のようなお話し振りで、お食事もいけるようになって、おばあちゃん初めて、いろんな食物の味を分かるようになったと言われたそうです。
 それまでは、ただうまかうまかでは、なーんも、なすび味はこんな味、うりの味はこんな味とわからなかった。ただおいしか、おいしか、ばっかり。それが、長い間、もう何にも食べれないというような状態からです、頂く一つ一つのね、いうならば、天地のお恵みをお恵みとして、分からせて頂くようになったという、そのことをほんとに喜んで、熊谷さんがお礼を申しております。丸が、食べ物の一つひとつの味わいが分かると申しております、と言うてお礼を言うておられます。
 ね、だから、わかったらそれを例えなければおられん。天地の親神様はね、今すぐ(?蘇るよ。     )よ。ね、なすにはなすびの味、うりにはうりの味がちゃーんとつけてあるという。それを、なら人間に、が、加工して、いよいよ味の極楽を、言わば、演出してあるわけなんです。
 だから、お料理一つ作られるでもです、それこそ、甘な辛ぬのうえにもね、心をつけて、もう年よりにも向く、若い者にも向くような、アイディア入りのお惣菜ならお惣菜ができるように、祈りに祈って、後はしなきゃいけんと。これは人間の、言うならば、天地の親神様の、いうなら極楽を、人間の働きを持って、極楽を持って、私は演出することだと思います。
 ね、だから人間の働きと、神様の働きが一つにならなければね、ほんとの極楽は生まれてこないです。
 (?けどうして)、私は合楽にご神縁を頂いてです、まわりの人を大事にする稽古、すべての事を御の字をつけて、言うならば頂いてきた方たちの上に現れておるのがです、素晴らしいタイミングである。ね、それを、例えばふんなら、目の当たりに見るのが合楽です。
 すいません、今日は玉露を頂こうかのと、なーにもなかですよ、お茶請けが。誰かが必ず羊羹を持ってきよるです。はあ、今日は、あー、よかお魚があるから、なら今日は、今日は、なら例えば、この頃からですね、大変素晴らしいお肉を頂いた。だからその、それを、ま何と言いますか、鉄板焼きにして頂いた。黒い時にはね、白ぶどう酒があると美味しいもんです。なら白ぶどう酒持ってきましょう。ちゃんとそこにあるということなんです。ね。
 必要なものが、必要において、そこにある。そういう事実を、今は見せてあるのが、皆さんの家庭でもそうであろうけれども、皆さんの場合は、それがぎこちない。ね、けれども合楽の場合は、それをずーっと頂きっぱなしに頂いておる世界、ここが極楽だこれが極楽の世界だというようなものを、みんなに見てもらっておる。また、聞いてもらっておるのです。
 かたぎんの願い捨てでは惜しいでしょうが。金光様のご信心だから、ね、ふんなら、かたぎんの願い捨てじゃない、それを聞いて、聞かなかったり、聞いて帰らなかったりするならば、かたぎんの願い捨てと同じことでしょうもん。
 そこで、なら日々、私が皆さんに聞いて頂いておるお話をです、聞いて頂いて、言うならば、極楽モードの演出、そしてそこを合楽のおかげ、言うならば、自分も喜びよるが主人も喜べる、でも( ? )とせにゃいけんです。とくにそうでなからなん人なんかは、んら、主人の大事に仕方が、演出が足らんとです。
 私この頃、自分の部屋に入る時に、香水の匂いがプンプンするんですよ。どう見ても、前はこういうことがなかったのに、そこを感じるんです。私だけだろうか、ね。
 例えば部屋ん中の、その、言うならムード作りです。ね。その私は、働き方が、商売が繁盛しとらんならです、お客さんをいかに、お客さん本位の信心、お客さんの喜んでくださることだけを考えておる店でない証拠です。
 ね、それが、言わば、合楽を現していくこと。自分も喜べる、お客さんも喜んで頂けれる。自分も喜べる、それが神様も喜んでくださる。親と子とが拝み合うていけれる、夫婦が拝み合うていけれる、言うならば世界を、私は真善美の世界、ね、合楽の世界。そういう世界にはですね、神様が貧乏はさせなさらん。そういう家庭には、もう病気の根から、根から御取り払い頂く。そういう家庭には、まずは争いは起こらない。ね。
 ( ? )、例えばこういうことは、とてもそげな事言うて、大それたことと思うておったけれども、現在の合楽では、もうそういう何十年、二十何年間の間に、その基礎ができてきておるということ。ね、だから例えば、基礎なしに、今私が申しますような、はあここは極楽だろうというようなおかげを頂いておってもです、中に住んでおる者が極楽を感じてなかったら、もう(?ここら)じゃないです。
 どんなに美味しいものを頂いてもです、もう食物を称えきらないくらいなことであっては、もうこれは三大の珍味とは言えないです。
 うん、どうぞ、先ほどから、もう、一週間ひとつ断食します、一週、十日間水を掛かるとか、そういう例えば、そういう意味の修行をやめて、本気でお参りをしよう。自分の頂いた神を完璧に、言うなら実意を持って、そこんところ綺麗にするとか、そこんところを、ね、十全なるものにしていくということに精進する。同時に、今までと同じようにです、いや、今までより以上にです、今日一日、一つ、成り行きを本気で大事にしよう。そして、本気にすることがこんなにも有り難いことが分かってくるのですから、十日、いやそれが身についてしまうというところにです、ね、合楽の信心がある。
 そういう信心を何とはなしにです、皆さんは身につけてこられた。言うならば、極楽とか合楽とかというです、ね、おかげの頂けれる基礎、基本というものができたからこそ、神様が、ね、この機会に、みんなを合楽の世界に浸らせよう。そして、その合楽の世界を、また周囲に広げて行こう、いうなら、最近はそれを宣伝と私は言っております。
 それを、自分の周囲のだれかれも宣伝していきなさい。そういうことやらいうことやら、ほんなことをいうていきゃいいのである。そしてその人が、(?わがおが)おまいりを(?ひぐろう)が、そんなことは問題じゃない。宣伝ですから。ね、そして、その宣伝に乗ってくる人達にです、ほんとに、なるほど宣伝道のおかげの頂けることを、合楽で渡したらいいでしょうが。
 ね、何か自分が頂かなければ宣伝もできない。なるほど皆さん、今日の御理解から、( ? )かたぎの願いどんしたんなら勿体無いということをです、分からせて頂いて、本気で、明るい朗らかな、楽しゅうしてこたえんというような修行を、ひとつなさいます。
ね、成り行きを大事にするということにひとつ徹して、ほんとに徹して見て御覧なさい。それが、いうならば素晴らしいタイミングをうむ土台にもなると同時に、ね、それがほんとの意味においての、真善美の世界、極楽の世界、合楽の世界の基本になるものだということなんです。
 素晴らしいタイミング、いわゆるほんとに(?譲れないな)、今度の御大祭有り難いな、そういうおかげをでね、お繰り合わせをお願いして頂くということが、これは金光教の信者さん誰でもが頂いておることになるです。
 けれども合楽の場合は、そういうものが茶飯事の中に、日常の中に、電車の中でも、バスの中でも、ね、いうならば至るところ、その場その場でそういう素晴らしいタイミングを感じさせてもらえれるということの基本が、極楽の、を、言うならば、極楽建設というでしょうかね、合楽建設とでも申しましょうか、の基礎、土台になるということを、今日改めて、私は感じさせてもらいました。
 だから、ほんとにかたぎんの願いしてんどんならん。今の合楽の御理解、一日だって頂き漏らすことが勿体無い。ね、そしてそれを(   ?   )ならしていきゃ、なお更有り難い、言わば答えが出てくる。
 神様が下さる極楽というものを、どんな素晴らしい極楽というようなおかげであっても、それをほんとに極楽足らしめる演出は、これは人間がしなければならない。そこに初めて神様と氏子の係わり合いということも分かって来るし、なるほど、親にかかり子にかかりということも分かって来るし、ね、氏子の喜びは神の喜びであるように、神様の喜んでくださることを私どもの喜びとさせて頂くような信心を、いよいよ身につけて行かなければならないということですね。
 どうぞ。